プロフィール

こんにちは

傷つきやすい女性のための相談室

   

      心理セラピスト
にしむらゆうこ です  
  

   現在、繊細な小学生の娘を育てながら活動中



HSP|HSS型HSP|アダルトチルドレンコンプレックス

「自分らしく過ごせない」
そんなお悩みを克服する 女性のためのカウンセリングを行なっております。 


私は、幼い頃からこんな悩みを抱えていました。
・繊細で弱い自分を隠してしまう
・物事が長続きしない
・つきまとう劣等感・罪悪感
・「私なんて」を繰り返す自己
否定

人に嫌われること、失敗することを恐れ、認められたい気持ちと共に子供時代を過ごしました。
母になり、子育てにも自信が持てず、いつしか引きこもり主婦に…。対人関係もこじらせ、自分自身にも疲れ果てた過去を持つ一人です。

人と関わる事にとても消極的で、誰かに頼るのが苦手…
悩みは膨らむ一方でした。
「一歩の勇気が出ない…」
「分かってもらえるかな…」
「こんなことで相談していいのかな?」

何度もそう感じ、カウンセリングの機会を失っていました。

私自身が、一人で悶々と苦しんだ経験から、繊細な頑張り屋さんにこそ カウンセリングをもっと身近に感じてほしい と、心から思っています。


また、社交不安症(赤面症)を発症したこともあり、人前で話すという事が、どれだけ緊張することか…痛感しています。

アダルトチルドレンを克服しHSS型HSPの特性をプラスに変え、とても生きやすい毎日を送れる事になった転機は、心理学との出会いでした。
「そのままの自分に価値がある」と思える様になった実体験をもとに、心をやさしく整理し、自分の力で癒す心のクリアリングメソッドをご提供しております。

小さな気づきの積み重ねが、心の傷を紐解くための重要な鍵になっていることは間違いありません。
HSPアダルトチルドレンに該当してるか分からない方でも、どうぞお気軽にご相談ください。

私がどんな過去を過ごし、どんな風に落ちていき、どう克服したのか?
私の経験が、お悩み解決の希望に繋がれば嬉しく思います。

プロフィール

目次

幼少期

罪悪感と顔色うかがいの原点。後継者問題を抱える本家に生まれた私

4世代・7人家族・2人姉妹の次女として誕生。
家族は、先祖代々続く本家を守り抜くこと、世間体をとても大事にしていました。

家庭内の雰囲気は、昔ながらの男尊女卑。女というだけで、「女のくせに」と言われることも多く、家事、農業の手伝いの毎日でした。

幼い頃から「どちらが後継ぎなの?」と、同じことばかり聞かれていた記憶があります。

男の子を産めなかった事を責められる母を見て、私が女だからこの問題が起きているのだと分かったのです。

「女に生まれて ごめん」と子供ながらに罪悪感を持ちました。

幼い私は疑うことなく、自分の家は特別だと思い、家族のことも大好きでした。

両親のコミュニケーション方は、いじりと否定。「なんでそんなに顔が丸いんだ?」と私を笑ったり、失敗や痛みは「お前は弱いからだ」と、笑いで済まれることが基本でした。

特に、見た目には口うるさく「泣くことは恥ずかしい」「変な格好はするな」はよく耳した言葉です。

こんな環境が、過剰に人の目を気にする自分を育てていきました。と、同時に見た目で人を判断してしまう癖も身につけました。

忙しい母を見つめて静かに過ごす幼少期「抱っこしてほしい」「泣き虫な私はダメな子」幼い心に負った傷

親戚や近所付き合いも多く、忙しい母。姑である祖母からは「抱き癖がつくから、抱かないこと」と命じられ、私に指しゃぶりを教えたそうです。

幼い心で「泣き虫な私はダメな子」と感じていました。

どうしても寂しかった私は、座る母の膝に無理やり頭を乗せ、困らせていた記憶があります。

「甘えたい、抱っこしてほしい」

母の背中を見つめる時間が、果てしなく長いものに感じていました。

父からの暴言。姉との確執「こんな家好きじゃない」初めて抱いた感情

機嫌の悪い日には 暴言を吐き、八つ当たりを繰り返す父。

「部屋の温度が気に入らない!」
「忙しい!どけ!」
私達を邪魔者扱いし、それから止めどなく母を罵倒します。

私は、恐怖と悔しさで、隠れて泣くことが精一杯。みんなが集まる隣の部屋からは「甘やかす必要はない」と声が聞こえ、誰1人とも 声を掛けには来てくれませんでした。

この家での私のキャラは「すぐ拗ねる可愛くない子」でした。

まぶたの皮が剥けるほど目を擦り、真っ赤に腫れていても 笑われるだけで、泣き虫をやめる方法を 子供ながらに考えていたことを思い出します。

「こんな家好きじゃない」私は、生まれて初めて、そう思ってしまいました。

私たち姉妹はいつも比べられ、外見を褒められる姉と、成績を褒められる私の間には、強い憎しみが生まれていました。

父や祖父から叩かれることが当たり前だった私達は、いつしか叩き合う関係に。「あんたが いるせいで!」と、相手に怒りをぶつけていたのです。

父の姿を見て育つうちに、他者に怒りをぶつける事は普通のこと命令することは大人の特権なのだと思っていました。

大人は偉くて強い、特別な存在だと思っていました。

私は、本心では姉が羨ましく、自慢の姉でした。

仲良くしたかったけれど、私は姉を憎むことと、成果で優越感を味わうことでしか、存在意義を感じれなかったのです。

「味方なんかいない」

姉もまた同じように、孤独を感じていたと思います。

無視・いじめ「笑ってる顔が気持ち悪い」母に言えない空気。友達に気に入られたい必死な私

ある日、学校で「調子に乗ってる。笑ってたのが気持ち悪かった。」と、友達からの突然の無視が始まり、3年間続きました。

どうしても嫌われたくない私は、見捨てられることに不安を感じ、謝ったりこれ以上嫌われないようにと、様子をうかがいながら生活しました。

先生にも母親にも相談できない自分。泣くことを嫌う母に、決してバレないように、平気なふり。友達の前では、手で顔を隠して笑うことにしました。

「母を悲しませない」「誰にも相談しない」と心に誓いました。

その頃、私の足には、※遺伝性の多発性軟骨腫症というが発見されました。
※良性腫瘍である外骨腫(骨軟骨腫)が全身の骨に多発する疾患である。 外骨腫は成長とともに大きくなり、皮下腫瘤として気づかれる。 腫瘍は左右対称性に出現することが多く、 膝周囲の大腿骨遠位および脛骨近位に出現頻度が高い。

膝の周りには、こぶし台の大きさの腫瘍が3カ所、細かいものは全身にも広がっていました。残念ながら、治るものではないと分かりました。

「みんなと違う足なんだ…」
「お姉ちゃんはなってないのに…」

いじめと通院が重なり、6年生の私はこの先が不安でたまらなかったです。
でも、母と2人きりで病院に行く時間が、どこか嬉しく、複雑な気持ちだった事を思い出します。

中高生・社会人

手術のトラウマ「この足で生きていくなんて…」人生最大のコンプレックスを抱えた多感な中学生

15歳。高校入学の前にと、手術を決断。中学3年生の夏休みを病院で過ごしました。

「普通の足になって 自信を持ちたい」

「この腫瘍を切除すれば、姉のような まっすぐな脚になれる」 「またスポーツもできる」それだけを信じ、心から期待していました。

麻酔が切れた私に突きつけられた現実は、痛々しく生々しい傷口と、成功しなかった手術の結果でした。成長線損傷、両足の長さに違いが生じ、一生治らないX脚に変形していくと告げられました…。

忙しい母は、毎日病院に来てくれ、隣で居眠りをしていました。その姿を見て、私は「迷惑をかけている」と、罪悪感すら感じていました。

この多感な時期に、15センチの傷を3本持つだけでも苦しいのに、姉のような足どころか、普通の足にもなれない現実を受け入れられず、再手術を訴えても、返事は「不可能。」

静かに泣くことしかできませんでした。

憧れの青春とは かけ離れた高校3年「親からも世間からも優しい眼差しが欲しかった」

スカートからのぞく大きな傷。女子高生の制服への憧れなど崩壊していました。

電車でも学校でも、人からの目線が気になって仕方ない…。コンプレックスを抱えた私は、完全に自信を失い、どんどん沈んでいきました。

足のことを気にすれば「誰も見てないから、大丈夫」と、励まされ、複雑な私の心はズタズタに傷ついていたのです。


見た目には問題があっても、成績さえ良ければ…。これ以上自分の価値を下げたくない私は、必死に勉強しました。

成績は上位に食い込むことが出来ていても、私は、呼び出されるほどの問題児となり、停学の処罰を受けました。

自分の惨めさを隠すほど、情緒不安定になり、友達とうまく関わることもできない。憧れの青春とは 言えない3年間を過ごしました。

家族から離れ、新しい自分になれると信じていた希望が崩れていく…上司の顔色うかがいばかりで、自分を見失う社会人生活

家族の反対を押し切って上京。

華やかな都会の中で、心機一転、生まれ変われる事を期待していました。

入社後、子供の頃から培った、頑張り癖をここでも発揮し、休日出勤、過酷な海外出張にも挙手し、人の代わりに喜んで残業。過剰なほど会社へ貢献する姿が評価され「自分にしか出来ないことをしている」と、やりがいを感じていました。

このまま走り続けられると思っていた私ですが、1年を過ぎた頃には違和感、2年目には限界を感じていったのです。

上司から指摘を受けると、人格全てを否定されていると感じたり、視線にも過敏になり、聞き耳を立てられている気がして、怖くて話せない状態に。「こんな自分を隠さないと…」焦りから汗が流れ、顔は真っ赤に。赤面症に悩まされました。

「大丈夫」そう言い聞かすほど、言動がこじれて、自分をらしさを見失いました。


自分に厳しい私は、周囲にも厳しくなっていき、気がつくと人が離れていく…職場の人間関係がうまく行かず、疲弊していました。転職を繰り返すも、いつも同じパターンに…。

物事が続かない劣等感。今思うと、これこそがHSS型HSP・アダルトチルドレンの要素です。

当時の私は、「根性なし」と悟られるのを恐れて、実家には近寄らずに過ごしていました。

結婚・子育て

「自分は失敗作」社会でも役に立たなかった 自分の不甲斐なさから「私がどうにかする」と後継者問題を引き受けようとする私

実家を離れて8年。
帰省した時、母は落ち込んだ様子で私の隣に座り「子育て失敗した」と、突然言いました。どのような意図で言ったのかは分かりませんが、「自分は失敗作だった」と感じ、強い罪悪感に襲われ、黙ることしか出来ませんでした。


この時期は、姉の結婚もあり 後継者問題について問われることが多く、「私は、この家には住まない」と言えば、父は悲し気にため息をつきました。

共依存という言葉さえ知らなかった私は、「自分だけが幸せになっていいのだろうか…」と、罪悪感を駆り立てられ、行動を起こすことに…

婿養子を受け入れてくれる人を探し、条件付きで交際しました。

本当なら、無条件で恋愛してみたかった…でも、足の病気の事、後継者のことを受け入れてくれる人なら、それで十分とも思っていました。

1年の時間を掛けても課題がクリアできず、両親からの快諾はされないままでしたが、私はお嫁に行くことを決めました。

結婚が許されるまで耐えてくれた夫には感謝しかありません。

罪悪感がありつつも、ようやく解放された安堵感も感じていて、親から独立し、これですべて解決と安易な考えを持っていました。

新婚生活に介入する母親「孫はまだなの?」母と距離を置き 一人で出産する決意

新婚生活、母親からのしつこい電話に悩んでいました「ところで、孫はいつ頃?」苦しくなった私は、母から少し距離を置きました。

なぜ、他の家族のように幸せな親子の付き合いができないのだろう…と疑問のループ。

無事に命を授かったものの、我が子を抱かせる事に強い抵抗を感じた私は、親不孝と思われても構わないと決意し、夫の転勤先で出産。

我が子を抱いた時、自分の病気が遺伝していないかを何度も確認し、同時に 自分のような寂しい思いはさせないと誓い、片時も離れずに育児をしました。

繊細な娘に悩み育児ノイローゼに「こんなに愛しているのに、子育てが苦しい」理想と現実の差を受け入れられない私

1歳頃から、どこに行っても場所見知り。泣いてばかりの繊細な娘に胸を傷め、深刻に悩み始めます。

「こんなに愛しているのに、子育てが苦しい」

・我が子のありのままの姿を受け入れられない
・ダメな母でごめんねと思って反省ばかり
・理想と現実の差が苦しい
・我慢しても全然良くならない

・他の親子が良く見える

特に泣いている姿を見るとスイッチが入り、苛立ちを抑えられない自分がいました。泣き声をかき消すほどの、大きな声で怒鳴ってしまったことも何度もあります。

当時の私は、問題は「繊細すぎる子どもにある」とばかり思っていたので、解決するのは私の責任だと思っていたのです。きっと たくましくなる…そう信じ、何年も解決の糸口を探し続けていました。

育児相談でアドバイスをもらっても、プレッシャーに感じてしまう…。変化しない娘の様子を見ては、自分の育児に恥を感じる様になり、どんどん孤立していきました。

一方で、娘が興味を示せば、習い事も増やし、できる限り叶えてあげたいと意気込みました。しかし、繊細な娘には負担が大きく、習い事どころか、幼稚園にも馴染めず登園拒否に。

「気にしないようにしたら?」「友達になろうって自分から積極的になってみたら?」と、幼稚園に通うだけでも大変だと感じる娘に、どうにかしてあげたい一心でアドバイスばかりしていました。

それでも、当時の私は、本気で娘のためと思っていたのです。

娘が6歳になったある日、娘の心が壊れていたことを知ります。

「ママ怖い…私にはできないよ。ママの前で話せない。」と、娘は私を拒絶したのです。

見知らぬ地で、初めての育児。余裕のない私は、自分に置かれた状況が不運だから、不幸者だと信じて止まなかったのです。そのようにしか思えないほど、自信も失っていましたし、自分を責めながら、娘も責めていました。

「なんで行けないの?」「困らせないでよ…」と、ひどい言葉で、ずっとずっと幼い娘を追い詰めていた事に、ようやく気が付きました。


寝顔を見ては「ごめんね…」と、後悔し、「母親失格」と、自分自身に絶望し続けていました。

毒親になった私
時間は待ってくれない「子育ても自分も諦めたくない」

娘を見ていると、幼い頃の自分を思い出す事が増えました。無意識に掛ける言葉は、自分が言われていた言葉ばかりでした。

「まさか…連鎖してる…」

毒親が連鎖する事を知り、同時に、私も毒親育ちだと認めざるを得ない状況になりました。

両親を大好きになりたかったのに、なれない自分を責めてきたこと。
娘とは、良好な関係を築けると、どこか自信を持っていたこと。

自分が毒親になったことで、いろんな気持ちが湧いてきました。

毒親をやめようと思っても…
「どう接していいか分からない」
娘に気をつかうばかりで、腫れ物を触るような扱いしか出来ない。
こんな状態を続けている中で、私の髪はどんどん抜けていました。


そこから、PMDDと診断を受け(気分変動、イライラ、抑うつ、倦怠感、不安等の症状で別人のようになる発症)多重人格のような状態に。投薬を試みるも、強い副作用で断念。更に どん底まで落ちていきました。



生きづらい毎日を嘆いている間にも、時間は流れ、娘は10歳に。

それでもまだ「子育ても自分も諦めたくない」という本音だけは捨てきれずにいました。

心理学との出会い

「完璧なママじゃなくていい」何度も起きていたトラブルは、子供からのメッセージ

複雑に絡まった心と、家族連鎖する悪循環。
「自分だけが不幸になるならまだしも、子供まで巻き込むなんて したくない」

ここまで気付いたのだから、この連鎖は絶対に私が断ち切ると決めました

「もう、どうにでもなれ」と、開き直る様な自分もいて、同時に「自己犠牲こそ親の美徳」という信念が崩れていきました。まず自分の状態を良くすること。「私自身が笑顔になることをやってみよう。」いつも顔色をうかがって、依存ばかりの自分だったけど、勇気を出して一人で行動し始めました。

私はずっと、外側の世界を変えようと必死で、自分の事は見ようともせず、人に正解を求めるばかり。弱い自分を守りたいがために、夫や、環境、社会に対してもいつも被害者意識だったのです。


夫には辛さをアピールし強要するモラハラな妻であり、娘には過保護・支配的な毒親でした。

家族・親子関係修復する時に、何よりも重要なのは自分の内側私の心の問題でした。

「完璧なママじゃなくていいよ」
「私のことよりもママのことを考えて」

娘は身を持って、私に対し何度も何度も メッセージを伝えてくれたのだと思います。

もちろん、娘を傷つけてしまった後悔ばかりですが、それを絶対に無駄にはしない。そう決めて、もう逃げないことを決意しました

そこから、偶然にも心理学へと導かれ、無縁だと思っていた アダルトチルドレン、愛着障害、共依存に 自分が該当していることを知り衝撃を受けました。


自分は、生まれつきのHSPだから生きづらいのだと半ば諦めていたけれど、更にアダルトチルドレンだと気づいたことが、心の傷を紐解くための重要な鍵あったことは間違いありません。

・心理学は特定の人のもの
・カウンセリングは自分の様な人が行くところではない

怖がりな私は、このように一方的に決めつけて 出会いを逃していたのです。

学びの中、どん底の私を最終的に救ってくれたのは、「自己受容」でした。よく耳にしていた自己受容という言葉は知っていながらも、正しいやり方を知らず、逆に自分を追い込み こじらせていたことを、ここで知ったのです。

過去のどんな賞賛よりも、自分が選んだ自然体な自分を生きている。等身大の自分に、価値を感じています

「関心を持たれず寂しかった」
「誰でもなく、母に甘えたかった」
「どんな自分でも受け止めて欲しかった」

長い間、蓋をして閉じ込めていた感情が次々に溢れ出てきました。

娘のことも、いつも心配ばかりしていましたが、本当は私自身がそのくらいの寄り添いを求めていたことにも気付き、そして私自身がダメな子供だったわけじゃないと、これまで責め続けて傷つけていた自分にも、やっと寄り添うことができました。

確かに私は、寂しい幼少期を過ごしましたが、当時22歳という若さで、農家に嫁いだ母の苦悩を、改めて理解することができ、両親もまた同じような傷を持つ、アダルトチルドレンだったと はっきりと分かりました。

自分の最大のコンプレックスに対しても、癒しと捉え方の変化が起きていきました。

「こうして歩ける足があったおかげで、色んな所にも行けたんだ。私そんなに不幸じゃなかったんだ」と感謝できるほどに変わったことは、過去の私からすると、信じられないことです。

ここに辿り着くまで、私には伴走者が必要でした。自分のためにも、家族のためにも、心の学びは必要不可欠であり、自己流では、決して到達出来なかったことです。

必要だったのは「我慢や努力」ではなく、弱くて 傷つきやすい自分を拒絶せず、「そのまま包み込んであげること」だったのです。

生まれた環境も、子育てに苦しんだことも、私がここに辿り着くために起こるべくして起こっていたのだと思います。

私は、「等身大の自分でいい」と、感じています


自分自身で「幸せになる許可」をすること
誰でもなく自分の人生を生きること

自分の人生は、いつからだって選び直せることを知りました

こうして、私を救ったセラピーの数々は、今では私がお伝えする「心のクリアリングメソッド」の核となり、繊細な女性の心に寄り添っています。

私の長い長いプロフィールを最後までご覧いただき、ありがとうございました。

何かの気づきや、一歩のきっかけになれば幸いです。